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大川隆法はどんなところに住んでいたのか
日付:2011/11/18 (Fri) 20:59:15 -名前:アイマイミー
大川隆法の私生活

今回は大川隆法の生活ぶりについて書いてみましょう。

大川の自宅にはじめていったのは、91年5月。そのときは、練馬区の関町に、一戸建て住宅を賃借していた。持ち主は、貸金業のアイチ(現在は廃業?)の社長で、これが、後年マスコミから、アイチと幸福の科学の関係性をとわれることになるが、これはマスコミの誤解。昔の秘書の原久子が、不動産屋経由で賃借したもの。

はじめて訪問したとき、補佐から、家の周りをみてどこに問題があるかを探ってほしいと言われたのには驚きました。小澤さんが、私の守護霊は”軍師”という噂を流したためらしい(笑) おかげで、軒下までのぞき込む羽目になりました。

面白いつくりの家で、道路から数m先に玄関があるのですが、車が突入出来ないほどの幅でした。丁度崖の上に立っている構造で、後ろからは進入できません。また、風呂が異常に大きくて、お湯をいれるのに30分はかかっていたではないでしょうか。この風呂へのお湯入れについては、どこかに告発らしきカキコを見ましたが、それがどこで見たかが定かでないので割愛。

秘書や、警護の担当者は、隣にATガーデンという施設があり、そこにいました。ただし、一般の賃貸住民もいました。

この頃は、長男、長女が生まれていた時期で、家つきの秘書は、女性が5人いました。一人が家事専門で、それ以外の女性は養育係でした。つまり、補佐さんは、料理も家事も育児もしていないというわけです。

私は、関町時代の自宅にはあまり行っていないので、アルゴラブさんに補足していただくことにして、一気に、93年9月から住みはじめた池田山時代のことから書きましょう。

なお、池田山に住む以前には、飯田橋あたりのマンションも下見したことがありますが、そのときは「関東大震災や戦争時の被災者の浮かばれない霊が多くいるので」と難色を示しておりました。ただ、この発言は、数年後の先祖供養祭かなにかで「戦争犠牲者の霊はほぼ浄化している」とは矛盾するのですが。いうことがコロコロ変わるもんで・・・

一時期は、紀尾井町ビルの上層部に住宅があるのですが、そこに住む案もあって、(家賃250万/月)検討しましたが、職場と住宅が近接すぎてストレスがたまるということでお流れになっています。、

池田山に関しては、山本進が全て仕切って準備をすすめ、調度品も三越の担当者を呼びつけ豪華な品揃えさせました。もちろん、食器類も一流品。三越もここぞとばかり、値の張るものをいれておりました。商売ですから・・・

軽井沢から帰ってきての9月から大川はここに住み始めたました。93年のことです。

つづく

Re: 大川隆法はどんなところに住んでいたのか
日付:2011/11/18 (Fri) 21:04:04 -名前:アイマイミー
セレブも羨む池田山のゴージャス生活

この池田山に大川隆法が住み始める直前、私は例の秋田兄嫁略奪事件の責任をとって支部長に左遷されたので、住み始めた直後のことはよく知りません。

坂元-津久井-喜島体制になったそうですが、津久井をのぞく二人が、一ヶ月持たずに放逐されたので、真杉さんが乗り出して、秘書部を秘書局に昇格させ、初代秘書局長(総合本部長兼務)として、新しい体制をつくったようです。

さて、池田山に借りたマンションは、2棟からなる、3LDK(140平米以上)が6世帯居住できるものです。地下は駐車場で10台は止められ、さらにその下は、雨水を貯蔵する堅固な建物です。

そのすべて6世帯分、2棟を丸ごと借り上げる壮大なもので、賃料は年間総額8000万円以上だったと記憶しています。

この池田山の模様については、私の記憶よりも正確なファルコン氏(大川家の家庭教師であった)の記述引用してみましょう。


[告発]大川夫妻 別居騒動の舞台 旧東京仏法館のスゴイ中身
ttp://trident02.site.voila.fr/okawa_ryuho_falcon7.htm#21
ファルコン ◆ejUolgR5L2 [] 投稿日:2006/05/28(日)

旧東京仏宝館:これは大川一家が93年~96年、宇都宮引越しまでと、98年に東京に戻ってから99年に大悟館に引越すまでの間の住居。ナガタハウス池田山ってのが正式名称。

地方の方向けに書くと、「池田山」ってのは、五反田駅側の超高級住宅街。現在の東五反田5丁目旧正田邸(皇后陛下の御実家)があったって書けば、想像できるよね。

で、そこに建設された超高級マンション・ナガタハウス池田山を丸ごと借り切って93年頃から大川一家が住み始めた。

ここは、でかーい3階建てで、東館と西館に別れ、計6戸が入居できるようになっていた。家賃は1戸あたり月100万円。幸福の科学は6戸借りてるので月600万円の家賃。

駐車場は地下にある。で、ここは賃貸なので管理人がいる(非幸福の科学信者)。オウムの一連の出来事があった時の住居がここ。大川が車にサリンを塗られた所。

で、ここの6戸をどう使ってたかと言うと(一戸ずつだから、各スペースに広いリビングがあるわけ)

西館1F リビング→プレイルーム 個室→男性用事務所2 女性事務所1 洗濯干し部屋

西館2F リビング→きょう子の図書室 個室→子供勉強部屋

西館3F リビング→女性宗務局員休憩&家事部屋 個室→住込み宗務局員部屋(住込みは女性)

東館1F リビング→大川用図書室 個室→マッサージ部屋、マガジン部屋、エステ美容室

東館2F リビング→食事室 個室→子供部屋、家事室、宗務局員宿泊室

東館3F リビング→大川用書斎 個室→きょう子書斎、寝室、衣裳部屋、薬部屋
となっていた。


つづく

Re: 大川隆法はどんなところに住んでいたのか
日付:2011/11/18 (Fri) 21:10:53 -名前:アイマイミー
大川邸を探索(笑)--ファルコン告発引用つづき

例の「きょう子が部下に作らせた原久子氏を呪う藁人形」は、東館3Fの家族の食事スペースの入口の天井付近、作り付けの収納棚の中にあった。頭・胴・両手・両足といった簡単な作りの人形。針は人形の下腹部(子宮のあたり)と手足に数本ずつ刺さっていた。

オウム事件の際、大川は防弾装甲をした車を購入している。リンカーン・タウンカーを防弾仕様に改造したもの。タウンカー自体が高級車であり、これの防弾仕様は「家一軒分」かかったとか。ちなみに、現在フォードが製造しているタウンカーの防弾仕様は14万ドル(現地価格)。

注)94年前後の防弾仕様車は、日産プレジデント。

こういったことに詳しかったのが、何度もご登場頂いている幸福の科学経理局だった「元大蔵省」氏。氏はカーマニアであり、幸福の科学職員になっても外国車に乗っていたツワモノ。ボルボと旧ミニが好きだったそうな。それからBMWの加速についても、随分語っていた。60キロと160キロの時のフィーリングが同じで、これは日本車に望むべくもないそうな。

注)この人物が、先般、地方本部からのお布施をはねてB勘定(ウラ帳簿)を作った。



ちなみに、この東京仏宝館は、
宇都宮仏宝館に引越した後も大川家の東京用住宅として
維持されていた。その間も賃料払っていたわけね。

注)これを読んでちょっと驚きですな。無駄遣いの真骨頂。布施ドロボーだ!


この東京仏宝館の2軒隣に、パンツ強盗梶ヶ谷が住んでいた宗務専用の職員寮があった。

ここは95年に土地を買い取って、新築した。時期から考えて、震災やオウム騒動があったため、大川家のすぐ側に、宗務局員が固まって住むように、とのことだろう。

外見は普通の民家だが、中は細かく仕切って、各局員の私室となっていた。梶ヶ谷はここにパンティを溜めていたんだな。

この大川家の側に、民家を購入して、そこに宗務局員を住まわせ、拠点にするやり方は、その後の宇都宮仏宝館、大悟館でも踏襲されている。大悟館の側には、表向き職員個人名義で購入したこの手の「寮」が存在している。

つづく

Re: 大川隆法はどんなところに住んでいたのか
日付:2011/11/18 (Fri) 21:17:28 -名前:アイマイミー
大川邸を探索(2)--ファルコン告発引用つづき

現在は、大悟館が完成したため、東京仏宝館は借りていない。先般の大悟館ツアーの際、一般の方々が出入りされているのを確認した。

また、2軒隣の職員寮も、改装の上、転売した模様。偶然の一致だろうが、ビューティースターと同じ苗字の方が住んでいらっしゃるのは既述。


(質問)幸福の科学の特徴は教団事務部と総裁先生の 住居を必ず一緒のところにする事にあるんですね。

一緒というか、近所にするようにとは、大川の当初からの考えではあった模様。そう述べているVTRがありましたね。震災が起きたとき、住居から総合本部まで歩いていけるように、と。実際、旧東京仏宝館からは旧総合本部だった戸越精舎にも、五反田駅側の現総合本部にも徒歩で行けましたし、大悟館から現総合本部も徒歩で行ける距離ですね。

実際にテクテク歩いた私が語るんですから、本当です。

ファルコンチーム(例の秘密組織ですね)のアジトって、実は大悟館の側にあったんですよ・・・・私、そこから出勤したりしてたんです・・・・(詳細は「奇跡のリヴィア」で)



いやぁ、ファルコン告発って微に入り細に入りで、改めてみても一級品の告発ですね。脱帽します。

実は、私ファルコンしとは面識がないんです。私が退職した年に職員となったようで、それも、大川家の家庭教師だったようで、もう毎日、いやでも顔を合わせるわけですから詳しいはずですね。

しかし、宇都宮に引っ越した後でも借りっぱなしとは、酷い話ですね。あの池田山一帯には、相当な数の職員が出入りしていたんですね。

それと、それ以外に白金小学校近くにもう一軒、豪華マンション3LDK(賃貸料忘れた)を借りています。こどもを名門の白金小学校に入れるため。池田山は小学校の近所ではあるが、家庭訪問にきてもらいたくない、住所をばらしたくないとの理由で。何

度か下見に行きましたよ小学校とは目と鼻の距離。

こうやってみると、随分、居住費にカネかけてますね。大川家関連だけで年間1億。私も一時単身赴任で豪華3LDKのマンション家賃60万のところにいましたから。秘書関連の費用いれたら年間1億5千万はつかってたでしょうね。

これ、信者さんの尊い布施なんですけどね。

つづく   あと2回分 明日にでも ご感想等はその後でお願いします。

Re: 大川隆法はどんなところに住んでいたのか
日付:2011/11/19 (Sat) 00:17:44 -名前:アイマイミー
日付が変わりましたので再開します。


前述の家の広さの補足:

1世帯分の広さは160平米以上はある。Lのリビングは、80平米くらいはあるので、リビングだけで通常の3LDKマンションの広さくらいはある。だから、東西の1Fリビングは、書庫にしたり、子供の遊び部屋にして滑り台とかおいていた。

マンションの案内風に言えば 6リビング+6ダイニングキッチン+18Kとでも表示する必要があるんじゃないかな(笑)



秘書の本当の姿は使用人 これ税法違反

さて、本題に戻って、93年9月、池田山での居住を開始。このとき、自宅付秘書のうち、料理専門秘書を解任し、某県で支部長をしていたプロの料理人を呼び寄せます。ただし、まだ、この頃は、自宅付秘書、紀尾井町秘書はそれぞれ5~6名前後だった。

真杉さんから引き継いだ94年秋頃になると、規模がドンドン大きくなっていて、いつのまにか、幸福の科学本部内でも最大の精力をほこるようになりました。

ここで、はっきり知っていただきたいのは、秘書でも自宅付の秘書は、本来給与は大川隆法が支払わなければならない性質のものだということです。使用人だからです。

幸福の科学が払うのは税法違反です。しかるに、未だに、その給与は幸福の科学持ちです。当時の家付秘書は40名近くいたのですから、驚くべき行為であるといえます。


それでは、94~95年は、どういう生活ぶりだったかを紹介していきましょう。

プロの料理人2名(男性)、
育児担当5~6名、
家庭教師(東大医学部卒2名)、
マッサージ師2名(男女)、
メイク担当1名(ヘアーメイクも担当)、
スタイリスト1名 
家事全般の女性秘書3~5名、
運転手5名、
その他雑用の男性職員(課長以下10名前後)、
紀尾井町の秘書等を入れると50名前後の、幸福の科学の最大組織でした。

では、日常なにをしていたのか。PCゲームをしたり(これは補佐のみ、大川はパソコンをさわれません)、本を読んだり、テニスをしたりと、それと幹部の悪口をいったりで毎日を過ごしておりました。

「正心法語」などを唱えたりすることすらありません。秘書の誰もがその姿をみたことがありません。信仰生活とは無縁の生活です。まして、宗教儀式をしたこともありません。

つづく

Re: 大川隆法はどんなところに住んでいたのか
日付:2011/11/19 (Sat) 00:23:40 -名前:アイマイミー
大川が仏陀でない証明

子供が病気になっても、祈らず(病気平癒祈願があるのに)、秘書をどなりつけてすぐ医者に行かせます。それも、保険治療ではなく、1回1万円以上の保険外診療に。住所がばれるのをいやがったのか?それとも、大川の子供ということ隠すためか?そのへんの真意は聞きませんでしたが…

紀尾井町に出勤する日はおもしろいシーンをいつも見てました。まるで、皇室気取りなんです。

まず、出迎え担当の秘書局次長か秘書部長(3人のうち交代で)が、大川居住の三階にお迎えにいきます。その間に、こども担当の女性秘書が子どもを引き連れて、エレベーターホール前に整列。また、随行秘書団も整列。

大川がおりてきたら全員で深々とお辞儀をする。大川は子どもに声をかけて、自動車に乗り込む。まるで、皇室を気取ったシーンですね、これ、週1回はやりますよ。


この94,5年頃の池田山時代、大川は体力回復につとめた時期でした。講談社との仁義なき戦いの直後、7大川は体力的に弱っていた反省からか、テニスをするようになりました。このころは夫婦仲もよく、二人でラリーの応酬をしていました。
いまは、違う「応酬」をしています(爆)

あっ!おもしろいことを思い出した。紀尾井町の女性秘書で、結婚した人、離婚した人がそれぞれ、大川に報告したことがありました。観自在力でお見通しのはずなのに、この報告を聞いて驚いた大川はすぐにこの二人を解任。後任を探すのに一苦労しました。観自在能力はどうしたのかしらね(笑)


お釈迦さまの誕生日は4月8日で花祭りが行われますが、大川にとっては関心のない日です。ところが12月25日は好きなんですね。お友達(?)のイエス様のお誕生日はことのほか好きでした(笑) 

池田山時代には、家族仲むつまじく、クリスマス・パーティーを開いていました。まだ、ひろし君が白金小学校に入学する前後のころで、さやかちゃんもまだ幼くて、まさき君が鼻を垂らしていたころでいた。

クリスマス・パーティーには、おもに家付秘書が同席し、秘書部長の一人がサンタクロースに扮し、もう一人の秘書部長がVTR収録していたようです。ひろし君が裸踊りをして、大川が大笑いしていたと聞いたこともあります。

このころの大川の生活ぶりの一端がわかりましたでしょう。極めて俗っぽい生活でしょう? 大川隆法は救世主ではなく、俗物なんです。

わたし自身が大川を俗物であるとはっきり認識したときがあります。大川の自宅で打ち合わせをしているとき、大川は私の目の前で、応接セットのテーブルに足を投げ出すんですね。私のほうが年上ですよ。このとき、「あぁ、この人には徳がないのだ」とわかり、愕然としましたね。ただ、私はポーカーフェースを貫きましたので、大川の観自在力をもってしても(?)気がつかれなかったようです。

まぁ、この池田山時代が大川夫婦の絶頂期でしょう。権威も権力もあり、会員には絶大な尊敬をもって崇めたてまつられ、わがままし放題で、お気楽に生活していたわけです。お金も使いたい放題。信者の布施で支えられた一番の栄光の時代だったでしょう。

ただし、96年からの大川の引きこもり生活が始まり、地震を恐れて宇都宮に移転しようとしたところから、転落の始まりといえるのでしょう。

なお、薬物使用の件については、後日。次回は、「補佐の地位が以下に上昇していったか」を予定しています。

それではご自由にご感想等を・・・

Re: 大川隆法はどんなところに住んでいたのか
日付:2011/11/19 (Sat) 14:40:56 -名前:りんご
大川さんて、お布施どろぼーだったんですね。
初めて知りました。私は貧乏な貧者の一灯をしてい
たときに、すべて教団のお金でやりたい放題。

もう、こんな団体に払うお金は、一円もありませーん。笑

Re: 大川隆法はどんなところに住んでいたのか
日付:2011/11/20 (Sun) 22:37:37 -名前:アルゴラブ
アイマイミーさん、お疲れ様です。
今回もやや亀レスになってしまいましたが、したらば資料集に大川夫婦の税金対策について文書を掲載しました。
大川家の実情に目覚めたい方は是非合わせてご覧いただければと思います。

>私は貧乏な貧者の一灯をしていたときに、すべて教団のお金でやりたい放題。

りんごさん、まさにおっしゃる通りですね。