ニセ霊言(自作自演)の見破り方
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日付:2010/12/04 (Sat) 15:46:57 -名前:退会者
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信者さんのマイコンを解くために重要な情報ですので、あらためて再掲させて頂きます。
KKのIT局職員さんへ、たいした中身のない無駄に長い書き込みをして、 信者に見せたくない内容を、後ろに移動させようとしても無駄です。 今後は、こうした重要内容については折を見て再掲させていだたきます。 ----------------------------------------- HSの教義(霊言・啓示・理論書)が 人間の捏造による自作自演である、という点について書いておきたいと思います。 私が「霊言の捏造」について、間違いない!という確信を持ったのは 去年から今年に出されている「新・霊言集」との内容の比較によってでした。 つまり、90年代までの「旧・霊言集」と 去年からの「新・霊言集」との中身(質・教養レベル)の明らかな落差から判断して これらは「霊言」(チャネリングや啓示)ではそもそも無いし、 さらには、同一人物による作成物でも無かったらしい、ということが分かったためです。 KK名物の「霊言集」というものは、 高級霊からの啓示やチャネリングではなくて 故人(善川・富山氏)があらかじめ書いておいた設定・シナリオに沿って、 大川氏が「現象らしく演技」したもの、あるいは、 教祖自身が、その場の思いつきで霊人をまねて喋っているだけのシロモノです。 結論から言えば、 ①90年代までの「旧・霊言シリーズ」の大半は、 故・善川氏(または)富山氏が、事前にシナリオを書いていた作品であり (ただし、高橋信二の霊言シリーズは、大川教祖本人の作出であった可能性が大) ②去年から出された「新・霊言シリーズ」は、大川教祖本人による作出である ということです。作家(書き手)が変われば、作風も変わるということですね。 結局のところ、人間は自分の知っている知見・教養・知識を超える内容は書けないわけで ①と②の中身を比較してみれば、その落差は明らかであるということです。 (故善川氏・富山氏に比べれば、大川教祖は明らかに頭が悪いということが分かります) さて、霊言のウソを見抜くポイントを幾つか書いておきましょう。 1.記述内容が「霊人自身の発言」(=霊言)ではないことを証明している 2.複数霊言の内容から「人間の捏造による」ことが判明できる 3.新旧の霊言シリーズの内容比較によって、作者が違うことが分かる 大きく分ければ、この3つのパターンからウソをあぶりだすことができます。 それぞれの事例を見ていきましょう。 ---------------------------------------------- ①「霊人本人の発言でない」ことが明白に分かるケース もし「ご本人」(霊人自身)であったら、 決して間違えるはずのないような事柄について、 素人レベルの誤り発言をしているケースです。 私が注目しているのは、新霊言シリーズの『霊性と教育』の中の 「ルソーの霊言」がもっとも分かりやすい事例です。はっきりニセ霊言だと分かります。 ルソーの政治哲学には、「一般意思」と「特殊意思」という対概念があります。 「一般意思」は「特殊意思」の寄せ集め(全体意思=世論)ではない、 というのが、ルソーの政治思想のポイントになっています。 分かりやすく言えば、 「特殊意思」というのは、市民1人1人のこうして欲しいという個人的要望です。 (例えば、子ども手当てを支給してほしい、年金を手厚くしてほしい、などなど) こうした個人の要望を集めた「全体意思」(集合)がいわゆる「世論」に当たります。 しかし、ルソーは、こうした個人の「特殊意思」を寄せ集めただけの 「全体意思」=「世論」(特殊意思の集合)によって、 政治的意思決定をしてはいけないんだ、と言っています。 そうではなくて、社会全体のために、みんなのために何が必要なのか、という 「普遍的」な視点から考えられた意思決定こそが正しいのだ、と言います。 このことを「一般意思」という用語で言っているわけです。 つまり、「一般意思」とは「世論」とは全く違う内容を指しています。 さて、問題の「ルソーの霊言」において、政党職員からの質問で、 「一般意思と全体意思は何が違うのですか?」という鋭い質問が出ました。 それに対する、ルソー(=バカ教祖本人)の回答がお粗末極まりです。 「一般意思」と「全体意思」(=世論)の違いがさっぱり分かっておらず、 「一般意思」=「世論」なんでしょ、と勘違いする、という致命的ミスを露呈しています。 もし、これがルソー本人による霊言であるならば 自分自身の政治思想(一般意思の意味)の用語を間違えたりするでしょうか? 実は、これに似た素人ミスは、 旧霊言シリーズの「カントの霊示」(『幸福瞑想法』など)にも見受けられます。 カント哲学のキーワードに「悟性」という用語がありますが、 この用語の意味を取り違えて、何か「宗教的な悟りの能力」だと勘違いしています。 しかし、実際は「悟性」とは英語でいえば「understanding」のことで 知的認識力、知覚する能力のことで、要は日本語の「知性」「知覚」と同じ意味なのです。 特に「悟り」や「宗教的な意味」はそもそもカケラもない用語なのです。 (明治時代に日本の学者が、あえて難解な翻訳語を当ててしまっただけです) こんな自分自身の用語の取り違いを、まさかカント本人がするでしょうか? つまり、この2つのケースからも明らかに分かることは、 「霊言」とは真っ赤なウソであって、ライターのシナリオにそって喋っているだけだということ。 ライター本人の教養・知識を越えるような高度な内容について書いている場合には 往々にして素人ミスを犯しており、ニセ霊言であることがバレている、ということです。 自分がよく知っている分野や歴史上の人物についてなら ニセ霊言で騙したり、それらしく語ることはできるでしょうが、 自分がほとんど知らない分野やジャンルについては とたんにボロが出るわけですね。 さて、昨年からの新・霊言集について登場人物を並べてみると 歴史的に実在が明らかである「近代の欧米人」が極端に少なくて 日本史上の人物、実在が疑わしい古代文明の架空人物、宇宙人 の3つのジャンルにばかり、登場霊人が集中していることが分かります。 どういうことかと言うと、バカ教祖が少しでも知っている日本史上の人物や ナショナリズムを投影しやすい日本人政治家であれば演技がしやすいことと 架空の人物、超古代の人物、宇宙人などであれば 事実関係や専門用語などによる、素人レベルのミスを指摘されずに 「ニセ霊言」だとバレずに済むからでしょう。 しかし、自分がほとんど知らない欧米圏のキリスト教系や思想家系となれば そういったジャンルについての専門知識や教養がありませんから、すぐにボロが出ます。 ですから、こういった欧米系の知識人や文化人についてはかなり倦厭していて 霊言を出したとしても、立ち入った内容、専門知識には触れないように回避する姿勢が明らかです。 ------------------------------------------------------ ② 霊人たちの共通発言に矛盾点があり、捏造を示しているケース 「旧・霊言シリーズ」については、最近の「新・霊言シリーズ」に比べれば まだ、内容的にも質が高くて、読み物としてはなかなか面白かったのですが しかし、やはり所詮は、故人(善川・富山)による自作自演であることは明らかで 霊人たちに共通して喋らせている内容に、致命的な矛盾があったりします。 その典型的な例が、様々な霊人たちが「高橋信二」のことを 共通して、9次元霊、エル=ランティとして語っている、という点です。 ・古今東西、宗派、系列のことなる「複数の霊人」たちが共通して証言している ・しかし、後になって教祖本人がこの言説を否定したという経緯がある この点はどうやって整合的に理解すべきなのでしょうか? ①霊言がホンモノで、霊人たちはウソを言っていない ②霊言はニセモノで、勝手にGLAを持ち上げて信者獲得を狙っただけ もし、①であるならば、多くの霊人たちの言っている事実を 後になって、教祖が勝手にねじ曲げた、ということを意味します。 (霊人たちは本当のことを言ったが、教祖が勝手に事実を曲げた) もし、霊言もホンモノで、教祖も事実を言っている、と言うのであれば 今度は、霊人たちが宗派・系列を超えて、口裏合わせてニセ証言をしていた ということにならざるをえないでしょう。 総ぐるみで詐称して、ウソをまことしやかに語っていた高級霊たちは 果たして、誠意がある高潔な存在であると言えるでしょうか?高級霊に値しません。 これらのジレンマが解消できない以上は①は誤りであって 霊言はニセモノ、霊人もニセモノという②が正しいことが明白なのではないでしょうか? ---------------------------------------------------------- ③ 新旧の霊言シリーズの内容比較で、書き手の違いが分かる 新旧の霊言シリーズを比較して明らかに言えることは、 登場する霊人たちのグループ、霊言で語られる内容の質に大きく落差があることです。 旧・霊言集では、古今東西や宗派などで見ても 登場している霊人の数にそれほど大きな偏りはありません。 宗教家、思想家、政治家、文化人、欧米系、アジア系など多様な面子です。 しかし、新・霊言集では、先ほど書いたような明白な偏りが見られます。 これは何を意味するかといえば、書き手の教養・知見の範囲を示しているのでしょう。 つまりは、故人の善川・富山氏と、バカタレ教祖の大川氏との「頭の中身」の違いです。 前者のほうが、教養や学識レベルではまだ広くて深かったと言えるが、 (善川・富山氏には、欧米圏の宗教や思想への基礎的教養、仏教理論の知見があった) 大川氏にはそこまでの教養や知見が無い、というのが実態なのでしょう。 だからこそ、バカ教祖には、前者に対しての根深い知的コンプレックスがあるわけですね 当然、ライターとして書ける霊言のジャンルや内容が限られてくるわけです。 また、政治的スタンスの違い、という点から見ても 新旧の霊言集の「中身の違い」が際立っていて、 旧霊言集では、ナショナリズム色は薄く、中道的でコスモポリタンな立場だが (国際協調を重んじ、排撃主義や民族主義を批難する考え方が基調になっていた) 新霊言集では、ナショナリズム色が鮮明で、右翼的・自民族中心主義が主軸。 (国粋主義に立ち、排撃主義、民族主義が基調になっている) これは、善川氏と大川氏の「政治感覚」の違いを示すものでしょう。 渡辺昇一の著作を愛好している、大川自身の政治的スタンスが前面に出ているのが、 新・霊言集である、というのが実態。 (善川氏には、そういった政治スタンスへの傾倒は見当たらなかった。) 以上の①~③の論点で、丁寧に内容をチェックして、新旧霊言集の比較をしてみれば これらの著作が、捏造や自作自演によるシロモノであることが分かるでしょう。 同じ捏造作品であっても、まだ旧霊言のほうが 書き手の学識や教養がそれなりであったために、読み物としての質は高かったのでしょうね。 新霊言のほうは、もはや読み物としては噴飯モノで そのレベルの低さに目も当てられないことは読者のみなさんが感じているとおりです。 Re: ニセ霊言(自作自演)の見破り方
日付:2010/12/13 (Mon) 14:02:56 -名前:スピリチュアリズム勉強者
私は幸福の科学の霊言 及び 霊界通信には本物もあると思います。
完全な創作、自演自作であれば、少なくとも百科事典で調べて分かるぐらいのところは間違いがないと思います。 逆に、潜在意識にある知識を流しているものは、単純なミスが多発すると思われます。 旧・霊言では、本物の霊界通信の中に受信者の潜在意識が混じりこんでいるものと本物の霊界通信が混在していたと思われます。 スピリチュアリズムでは「夢幻界」と呼ばれますが、地上において、何らかの宗教を信じたり、自分が天の世界へ行くために善行をしたり、他人のことよりも自分の悟りの追求に夢中になったりした人達が行く世界があって、ここでは、自分が最高の悟りを得た、自分は神になった、自分は全知全能になった、最高の天界に到達した、自分は最高の神・仏に仕えていると思い込んで、全ての願いがかなったという幻想の中にいます。 こうした世界にいる人達が、自分の尊敬・崇拝している人物や神・仏と一体化したと思い込んで、地上から呼び出された場合には、地上の人達のために考えて道徳的教訓を説いたり、自分のような悟り、自分の到達した世界に至るために信仰しなさいと言ったりもします。 この世界からの通信が主ではないかと思われます。 何人ものイエス・キリスト、ブッダ、神などの存在する世界です。 騙そうとする目的ではなく、自分がそう思っているからそのように語っているということです。 その特徴は、自分を歴史的偉人や神と思い込み、内容は道徳的教訓を含んでおり、それが世の中に出ても大した害はないということです。 地獄というほど悪いことはしていない世界の住人達です。 新・霊言のほうは、潜在意識も一部含まれているとは思われますが、受信者の意識的規制や理性的な歯止めがなくなり、霊言としては、以前よりも純粋霊言に近くなっていると思われます。 しかし、内容は質が下降し、通信者はまさしく低級霊、悪・邪霊が多くなっていると思われます。 通信する目的は、自分を偉く見せたい、地上の人間から崇拝されたい、神や仏、偉人の名を用いて地上の人間をからかたい、地上の人間を騙したい、神や仏、聖なるものを冒涜し、あざ笑いたい、宗教全てを信用できないものに思わせ、真理さえも信じられなくしたい、平和な家庭を壊したい、地上世界を争いの場、混乱の場にしたいなど多様と思われます。 その特徴としては、神や仏、偉人の名を騙りながら、本当の意味での愛や温かさが感じられない。 その言っていることを信じ、実践するほど、状態は悪化し、本人の自己意識が失われ、理性での検証ができなくなっていく。 自分で考えることができなくなり、操り人形化していく。 本人の周囲の環境が悪化し、家庭の調和が失われ、周囲の人からの信用が失われていく。 隠すこともなく、他の人や団体に対しての全否定、悪口、暴言が行われる。 常識的に悪いことであってもやりなさいと命令してくる。たとえば、人を殺せ、他の人を悪魔と呼べ、金を人を騙してでも集めろ、盗めなど。 我らを信じないものは全て敵であり地獄に落ちるという。 このような特徴が多くなったのであれば、通信霊が、偉人や神・仏と自分で思い込んでいる霊から、偉人や神・仏の名を騙る低級霊、悪・邪霊にシフトしたと思われます。 掲示板で掲載されている自称「文殊の霊言」や「守護霊の霊言」が本当になされたのであれば、子供に母親を殺せと言わせるような悪・邪霊のものとしかいいようがないと思います。 また、悪霊とはっきりしている霊言のほうが、ブラック・ユーモアを含んでいたり、個性がはっきりしていたりするように思われます。 まさしく「悪霊が語る」の真正事例ではないでしょうか。 Re: ニセ霊言(自作自演)の見破り方
日付:2010/12/13 (Mon) 19:44:42 -名前:スピリチュアリズム勉強者
旧・霊言集と新・霊言集には大きな違いがあります。
旧・霊言は、各霊人の見解の違いはあるにしても、全ての霊人が互いに友好的で強力し合っているという感じがあることです。 全ての霊人が、何次元の存在と名乗っていても、全てが唯一の神の元にあり、神の理想のため、神の法の下に働いているという感じがします。 これこそが、スピリチュアリズムと一致するものであり、他の排他的宗教よりも信じる人をひきつけるところでしょう。 新・霊言は、各霊人はただ教祖、大元の神のようなものだけを一生懸命に持ち上げ、おだてあげるものが目立ちます。それが仲間同士の一つのグループを形成しているように感じます。 そして、それとは別のグループは友好関係ではなく、互いに対立し合い、攻撃し合う関係のようにも感じられます。 つまり、見解の相違どころか、霊界では宗教・思想の相容れないものは互いに争っているように感じるのです。 旧・霊言はしっかりとした大元の大真理が存在して、各霊人がその一部を担って伝えようとしているという感じがします。 新・霊言は、幾つも全く異なる思想・宗教らしいものが存在して、互いに別のグループを自分の思想・宗教らしいものに力と強制で染め上げ、支配し、統一しようとしているもののように思われます。 自由な雰囲気のある旧・霊言と脅迫と呪いによる強制支配の雰囲気がある新・霊言というところでしょうか。 |